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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

竹入義勝を糾弾する

2006年10月30日 22:16:00

 公明新聞に寄せられた、学歴詐称の勲章泥棒こと、竹入義勝・元公明党委員長を糾弾する「手記」

公明新聞2006年10月11日付

竹入を糾弾する

手記

陸軍航空士官学校59期生 伊藤文男 〈上〉

学歴詐称を陸士に謝罪せよ

 何が「陸軍航空士官学校(陸士)卒」だ! 何が「重爆撃機の機長だった」だ! ウソの学歴や軍歴をひけらかしてきた元公明党委員長・竹入義勝という男には、その詐称が、どれほど重大なことか分かっているのか。


 私は、1943年に、旧制名古屋中学(現・名古屋学院)を卒業した後、陸軍予科士官学校に第59期生として入り、翌44年に陸軍航空士官学校(本科)に進んだ。最近、陸士58期生・塚田利助さん(長野県大町市在住)の証言などを新聞記事で読み、竹入の学歴詐称を知り、驚くとともに、怒りが込み上げてきた。

 竹入は四十数年も前から、入学すらしていない陸士を「卒業した」とウソをつき、さらに、陸士に入る前の学歴も必要だと考えたのだろうが、旧制高千穂中学卒というウソも一緒に吹聴してきたのだ。

 しかも、塚田さんから陸士の何期かと問われて、竹入は「59期だ」と答えていたというから、開いた口がふさがらない。

 陸士59期は、「59期会」という同期会をつくり、2千数百人の同期生をしっかり掌握し、3年に1度くらい詳細な名簿を発行している。それは退学者や休学者まで掲載されている厳正な名簿だ。そこにはもちろん、竹入の名前はない。

 また、陸士全期の名前が登載されている会員名簿(財団法人偕行社発行)にも、竹入の名は乗っていない。

 そもそも、59期生の仲間内で、竹入の話題が出たことすらない。公党の代表にまでなった人物なのだから、もし、本当に同期生なら、話題にならないはずがない。


 加えて竹入の「重爆撃機の機長だった」というウソは、まさに噴飯モノだ。

 重爆撃機の機長というのは、航空士官学校を卒業した後、さらに数年の経験を積まないと務まるものではない。59期生の私は、45年、操縦訓練のために満州へ渡り、その半年後に終戦を迎え、同年8月末に内地に帰還したのだが、操縦訓練中のような59期生には、重爆撃機の機長など絶対に務まらない。まったく浅はかなウソだ。


 私は61年11月に公明政治連盟が結成された当時から、党員として公明党を支援してきた。

 竹入が委員長をしていた20年間はもちろん、これまでずっと、「大衆とともに」との立党精神を誇りとして、一生懸命支援してきた。また、衆院選や都議選をはじめとする選挙の際には、陸士の同期生たちに、公明党公認候補への応援を依頼してきた。

 それが結局、竹入の学歴詐称によって、多くの陸士出身者の名誉を著しく傷つける結果になってしまったのだ。竹入には、自らのウソを公に認めて、陸士出身者全員に土下座して謝罪してもらいたい。
下に続く


公明新聞2006年10月14日付

竹入を糾弾する

手記

陸軍航空士官学校59期生 伊藤文男 〈下〉

勲章は直ちに返上すべきだ

 私たち陸軍航空士官学校(陸士)の59期生は、かつては毎年、今では2年に1度、各県持ち回りで全国大会を開催している。

 しかし「陸士卒」と自慢していた竹入が、その大会に参加した形跡はまったくない。ちなみに自民党の故・梶山静六代議士はよく出席していた。二千数百人に及ぶこの同期会の結束は強く、強固な支援も期待できたのだろう。本当に竹入が59期生だったのなら、出席するのは当然だ。さすがの竹入も、入学すらしていない学校の同期会に出席するほどの厚顔さは、持ち合わせていないのだろう。

 ところが、それ以外の場では、シャーシャーとウソをつき続けた。テレビに出たときも、新聞や雑誌の取材に対しても、竹入は平然と陸士卒を語っていた。さらには東京都に提出した正式な書類にまで、陸士卒と書いていたと聞くと、あきれてしまう。


 本当の陸士がどんなものだったかを竹入は知っているのだろうか。知っていて平然とウソをついてきたのだろうか。

 私たち陸士出身者には、死と隣り合わせの戦場へ行くための訓練を、ともに受けてきた者同士だけに通じる友情と信頼がある。

 この本物の陸士出身者の気持ちなど、名聞名利のために学歴を詐称してきた竹入には、ほんのかけらも分からないだろう。

 私と同じ陸士出身者の中にも、祖国のためにと戦場に散っていった友がいる。旧ソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留され、無念の最期を遂げた同志もいた。中には生きて終戦を迎えたことを潔しとせず、割腹自殺に及んだ者もいたほどだ。

 当時の日本の軍国主義を賛美する気など毛頭ないが、このような犠牲者の無念の思いを、陸士出身者は皆、胸に抱きしめて今日まで生きてきたのだ。竹入は、自分の行為が、陸士出身者の胸の内にある“大切なもの”を土足で踏みにじる行為だということが、分かっているのか!


 こともあろうに竹入は、自分の栄誉栄達のために「陸士卒」を詐称し、果ては1996年、国から「勲一等旭日大綬章」まで受けている。あまりに破廉恥だ。

 それも、党内では皆に「多くの人々に支えられて、議員として働かせて頂いているんだ。勲章なんかもらうな」などと指導していた張本人が勲章を受けたというのだから言語道断だ。勲章はただちに国に返上すべきだ。

 結党以来、懸命に支援してきた公明党の元委員長が、こともあろうに、私が胸の内で大切にしてきた「陸士」を騙り、必死に支援する党員や支持者を裏切り、国民をだまし続けてきたのだ。

 その上、芸者遊びに女狂い、宝石、盆栽漁り等々と、竹いの行状が次々と明らかになっている。

 私は、胸をかきむしられるような、悔しさと怒りで、居ても立ってもいられない思いだ。


公明新聞2006年10月18日付

竹入を糾弾する

手記

鈴木 秀男(仮名)

妹の人生を狂わせた畜生男

 二十歳を過ぎたばかりで、まだあどけなかった私の妹を、委員長の肩書を巧妙に使って、竹入はたらし込んだ。そのせいで妹は、いくつもの良縁を断り、その後の人生を台無しにされた。

 もちろん竹入には女房がいた。妹を最も身近なところで見ていた母は悩み抜き、苦しみ続け、死んでいった。

 母は、純粋一途に公明党を支援してきた名もない一婦人である。選挙となれば、猛暑の日も寒風の日も、ただただ公明党を勝たせたい」との思いだけで、足が棒になるほど支援活動に歩いていた。

 その母が、竹入が最愛の娘と男女の関係になっていることを知ったとき、どれほど大きなショックを受けたことか。私には、竹入が母の寿命を縮めたとしか思えない。


 母が死んで25年が経つ。私は「母の無念を晴らしたい」「晴らさなければならない」と思っていたが、竹入が党委員長を20年近くも務めた男で、このことを問題にすれば公明党に傷がつくと、ずっと悩んできた。誰にも言わず、墓場まで持っていこうかとも考えた。

 だが、今の私にその迷いはなくなった。学歴詐称や豪遊三昧、宝石・盆栽あさり、不正献金疑惑など、公明新聞紙上で暴かれる竹入の堕落した姿を知ったからだ。これほど党や支持者を裏切り、恩知らずの人間は後々のためにも絶対に許してはならない。私は、無念の思いを抱いたまま死んでいた母に代わって、竹入を告発することにした。


 竹入は党委員長になってわずか1年後、九州地方で選挙遊説を手伝っていた、親子ほど年が離れた私の妹に目をつけた。妹が女子学生のころだ。

 その後、竹入はしょっちゅうわが家に電話をかけてくるようになった。家族が電話に出たときには、竹入は名前も名乗らず、ガチャンと電話を切った。決まって毎週土曜日の夜にかかってきた。竹入からの電話であることは、わが家では公然の秘密であった。

 竹入は妹の気を引こうと、妹に高価な腕時計や宝石類を次々と贈り、近寄ってきた。先日、竹入が公明党の公金500万円を横領し、自分の女房のために指を買っていた、との記事を公明新聞で読み、やっぱりそうだったのかと激しい怒りを覚えた。

 もしも、妹に贈りつけていたさまざまなプレゼントも党の公金で買った物だったなら、気位の高い母は間違いなく即座に「送り返しなさい」と、妹をきつくしかったことだろう。妹も竹入の心の卑しさに目が覚め、竹入との関係を引きずらずに済んだかもしれない。

 私はこれまで竹入に宛てて再三、手紙を出し、妹との関係をただし、謝罪を求めてきた。しかし、いまだに竹入からは何の返事もない。

 それどころか、ちょうど私の妹をもてあそんでいる同時期に、東京でも別の女性に手を出していたことを公明新聞で知った。

 一体、何人の人生を台無しにすれば気が済むのか! その家族が、どれほど無念で、どれほど怒っていると思っているのか!

 私は絶対に許さない。死ぬまで戦い続ける。



公明新聞2006年10月28日付

竹入を糾弾する

証言

元衆院事務次長 金井 俊和

破廉恥な遊興にふけった竹入

 竹入の過去の悪行が次々と暴かれる中、公明新聞紙上で竹入の料亭での芸者遊び写真が紹介されていました。私はその当時、公明党の衆議院事務次長の職にあり、竹入から直接の指示を受けて仕事をしていた関係で、その写真の奥に隠された彼の所業がいかに破廉恥極まるものであったかを知っています。しかも、あろうことか、その悪行に党の公金が使われていた疑いさえあるのです。


 竹入の料亭での遊興は昭和45年頃から始まりました。彼にすれば、その一つ一つが珍しく、楽しい一時だったようです。蓮っ葉な声で「ターさま(竹入のこと)、好いたらしい」と叫ぶ若い芸者に、竹入は満更でもない顔でニヤリと笑い、周囲が囃し立てる中、鼻の下を長くして得意げに、ご祝儀を振る舞っていました。こうした脂粉の香り立ちこめる中で、茶屋酒をあおる毎日が、彼の心を蝕んでいったのです。

 その後の、彼の遊興は度を過ぎた、目に余るものになっていきました。私がそれに気づいたのは、浅草の料亭の宴席に同席した際の出来事でした。

 いつもなら、竹入が料亭に到着すると、玄関から「竹入さま、お入り!」という声が掛るのですが、その日は、なぜか、その声がなく、突然、竹入が宴席の部屋に現われたのです。しかも、誰が見ても風呂上がりとしか思えないツヤツヤ、テカテカ赤みがかった顔で!

 これには、同席した他の国会議員も気づき、私と顔を見合わせたほどでした。しかも、なぜか、竹入のお気に入りの芸者が遅れて入って来たのです。一体、その宴席の直前、竹入は、どこで何をしていたのでしょうか。


 それ以来、私は他の芸者や下足番から「お宅の委員長さんは遊び慣れていらっしゃるから」とか「本当に遊び上手なんだから」という話を度々聞かされ、竹入が宴席の始まる約2時間も前から、その料亭を訪れていたことを知るようになったのです。当時の委員長の車は、国会の自動車課の車でしたので、党の衆院事務次長だった私には、その車の運転記録をチェックすることなど簡単でした。

 宴席の約2時間前の“ご出勤”は、その後、何回、否、何十回続いたでしょうか。私が指示されたとおり料亭に予約を入れる。竹入または、竹入の側近が料亭に連絡し、好みの芸者を呼ばせておく。そして、竹入は2時間も早く料亭を訪れ、宴席の前に事を済ませ、何食わぬ顔で宴席に現れる。こうしたことの繰り返しが続きました。

 その後、竹入について耳にする噂は、聞くに耐えない、恥ずかしいものになっていきました。「本当に、いけ好かない奴」「次から次へと、節操もなく、食い散らかすばかり」「あんな汚い遊び方をする男は他にない」等々と。

 しかも、その料亭からの請求書は、すべて党本部に回されていました。もちろん、竹入が宴席前に遊んだ2時間分も含めての請求ですから、結局、竹入は破廉恥極まる遊興を、党本部の公金で賄っていたことになります。


 これが、竹いの偽らざる実態、実像です。党の恥をさらすことになると思い、私はこれまで詳しく語ることを控えてきました。

 しかし、事の真偽をただした私の質問書に何の返答も寄こさぬ以上、彼の悪行を天下に知らしめ、恥知らずの膿を出し切ることが党のためになると思い、自身の反省も込めて述べさせていただきました。



『創価新報』2006年5月17日付

青年部座談会 12

“竹入は共産党恐怖症だった”公明党議員OB
「創共協定」にも嫉妬の難癖


“悪事は芋蔓式に暴かれる”
「学歴詐称」の竹入に続々と新疑惑


竹内青年部長
佐藤男子部長
高木男子部書記長
原田男子部教学部長
森山学生部長

 佐藤 戸田先生は断言された。
 「学会を裏切った者は不思議と落ちぶ果てた姿を見せにくる」
 退転した連中は、皆が皆、その通りになっている。敗残の哀れな姿を晒し、仏罰の恐ろしさを証明している。

 原田 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」だ。 あの「学歴詐称」の竹入! あいつも最近、あっちでも、こっちでも、新たな悪事が暴かれはじめた。

 竹内 まず「京都の超高級料亭で豪遊」だ。
 竹入は昭和50年代、海外からの国賓も訪れる超高級料亭で、しかも一族ぐるみで遊び狂っていた。

 高木 複数の証言によると、竹入のやつは20数人もの一族を引き連れ、最上級の部屋を陣取っていた。
 食事代だけで一人あたり7~8万円。そのうえ竹入本人の注文で芸妓まで呼んでいた。

 森山 一晩で200万円以上は散財していた計算になる。
 当時は、大学卒の初任給が月10万円(昭和52年)の時代だよ。

 佐藤 ほかにもある。竹入のやつ、伊豆でも豪遊していた。これも最近、関係者の証言で発覚した。

 高木 昭和63年5月当時のことだ。竹入は、伊豆の温泉地・修善寺の高級料亭旅館で遊んでいた。

 原田 あの遊び人の日顕も、何度も遊びに行っている「超」高級料亭旅館だ。

 竹内 やっぱり日顕「同じ穴のムジナ」だったんだな。

「芸者遊び」の常連

 原田 あいつの贅沢三昧の豪遊は、まだまだある。
 竹入は何と「芸者遊び」の常連だった。浅草の料亭に頻繁に出入りして、派手に「芸者遊び」をしていたんだ。

 森山 僕も聞いた。竹入のやつ、いつも偉そうに、ふんぞり返って、芸者に命令していた。
 芸者の間でも「あの威張り腐った態度! 何様のつもり!」と嫌われ抜いていたそうだ。

 佐藤 知れば知るほど、愚劣なやつだ。
 だいたい、そんな大金、議員の歳費だけじゃ、全然まかなえない。いったい、どこで作ったんだ?

 原田 あいつの悪事は、まだまだ出るよ。
 「政治家の悪事は芋蔓式に暴かれる」というじゃないか。
 今、続々と情報が集まっている。

財界に取り入る

 高木 戸田先生は、議員に対して厳しかった。
 「いかなる立場になろうとも、つつましい生活を忘れるな」と厳命されていたと、うかがった。

 高木 その大精神を忘れて、贅沢三昧、遊び放題。それ自体が反逆だ!

 竹内 その通りだ。竹入が公明党の委員長だった当時、あいつのせいで支持者がどれだけ迷惑したか。
 共産党との関係も、そうだ。

 佐藤 公明党の元国会議員も、明確に証言していた。
 「竹入は根っからの『共産党恐怖症』だった。とにかく、よせばいいのに、共産党を挑発しては、しょっちゅうケンカを売っていた。
 竹入一人のために、支持者がどんなに嫌な思いをさせられたか」
と憤慨していた。

 原田 竹入は昭和40年にも“野坂参三(当時、共産党議長)が中国で人を何人も殺した”などと事実無根の暴言を吐いて、大問題になった。
 共産党に抗議されると、竹入は青ざめてオロオロとうろたえるだけ。

 森山 今でも笑いぐさだ。当時、公明党の議員が必死で調べてやったが、そんな事実はなかった。結局、竹入が共産党に謝罪した。

 高木 ぶざまなやつだ。

 佐藤 竹入がチンピラみたいに、共産党にケンカを売っていたのには、理由がある。
 あいつは「反共」をネタに、自民党や財界に取り入ろうとしていた。そういう魂胆だったんだ。

 竹内 間違いない。たとえば、田中角栄元総理との不透明な関係。
 “オレが田中角栄邸に行けば、2、3000万円は、すぐくれる”などと自慢していた。

6億円献金疑惑

 高木 平成4年には、佐川急便からの「献金疑惑」が発覚。マスコミが大々的に報道して、大問題になった。

 原田 当時の新聞報道によると、こうだ。
 竹入は昭和62年当時、東京江東区内の都道の建設に絡んで、佐川急便に有利になるように、東京都に働きかけた。
 その前後に、佐川急便から、竹入が設立にかかわった財団に6億円が寄付されている。

 森山 6億円といえば、この財団の資産の、ほぼ全額だ。当時「竹入は佐川急便の丸抱えで財団を作った」等と、さんざん叩かれた。

 高木 この時も、支持者は本当に大迷惑だった。
 あいつの金銭疑惑。狂ったような共産党攻撃。泥を被るのは、全部、支持者だった。

 佐藤 しかも竹入本人は、あっちこっちでコッソリと遊び狂っていた。

 竹内 ふざけやがって!
 支持者が必死で戦っている選挙期間中も、あいつは高価な盆栽を買い漁っていたな!

 原田 選挙中の悪事といえば、京都府知事選をめぐる2000万円買収疑惑!
 当時、京都では、ずっと共産系の知事が続いていた。竹入は、そこに目を付けたんだ。

 森山 竹入は府知事選でも「共産党を潰す」と喚き散らしていた。
 自分のクビに“反共”の鈴を付けて、保守陣営に売り込んでいた。

 高木 そして昭和49年の府知事選。保守系の候補が、竹入に現金2000万円が入った菓子折りを届けたんだ。

 佐藤 竹入のやつ“菓子折りは1カ月後に返した”などと言い訳していたな。

 原田 何いってんだ!
 だったら、なぜ、すぐに返さなかったんだ。

 森山 その通りだ。「悪事がバレそうになったから、慌てて返した」ということじゃないか。

 佐藤 この悪党め!
 著名な政治学者も怒っていた。
 「竹入というのは、支持者をダシにして、金儲けを企んでいたんだな。最低のゲス野郎だ」と激怒していた。

文明史的な意義

 竹内 とにかく竹入のせいで、公明党の支持者は大迷惑だった。
 共産党との関係でも、あいつがバカみたいに挑発ばかりしていたから、どれだけ嫌な思いをさせられたか。

 原田 そうした状況のなかで、支持団体の学会が結んだのが、あの「創共協定」だった。

 高木 昭和49年12月のことだ。
 作家の松本清張氏の仲介で、池田名誉会長と共産党の宮本議長(当時)が会談した。

 森山 その通りだ。池田先生は「共産党との間に無用の摩擦を生じ、選挙のたびに学会員を過度の政争の手段にしてはならない」と判断され、率直に話し合われたんだ。

 佐藤 当時、心ある指揮者は皆、絶賛していた。
 「学会は素晴らしい先見だ。考え方が柔軟だ。幅広い」と賛同していた。

 竹内 さらに協定には「宗教と共産党の共存」という文明史的な意義があった。

 原田 その通りだ。この年、池田先生は東西両陣営の対立が激しくなるなか、歴史的な初訪中(5月)、初訪ソ(9月)を果たされた。
 12月には、再び中国を訪問。そして年末「創共協定」が結ばれた。

先見の明を賛嘆

 高木 海外の識者も、池田先生の行動に驚嘆していた。
 「人間不信と対立を煽るイデオロギー闘争は、地獄の苦しみをつくるだけだ。
 よくぞ池田会長は、イデオロギーとか政治性を超越して、平和と、人間としての協調性を創出していく道を訴えられた。
 すば抜けた英知の行動であり、池田会長こそ、本当の意味の大指導者だ」
と心から賛嘆していた。

 佐藤 そういう人類史的視野に立った、世界との対話の中で、日本の共産党とも話し合われたんだ。

 高木 当時、協定が結ばれたおかげで、共産党との泥仕合が、ようやくなくなった。
 昭和51年の衆院選では、公明党は30議席から56議席に大躍進した。

 森山 どれだけ先見の協定だったか。この一事を見ても、よく分かるじゃないか。

 竹内 ところが竹入など、協定を結んだ意義も、時代の流れも、まったく理解できなかった。
 協定に難癖を付け「オレは今まで通り、共産党をブッ叩く」などと、狂ったように言い放った。

 高木 嫉妬だよ、嫉妬。自分には、大きく構想を描き、実行する、先見もない。度量もない。
 だから、池田先生の偉業に嫉妬していたんだよ、あいつは。

 原田 バカバカしい。元祖「ニセ法主」日顕と同じじゃないか。

 佐藤 なんと言っても「学歴を詐称」していた男だからな!

 高木 当時のマスコミも、ズバリ指摘していた。
 「竹入は、創共協定を事実上ブチ壊した張本人」と書いた、ジャーナリストもいたほどだ。

 森山 一方で共産党も、協定を政治的に利用して、歪めて、壊してしまった。

 竹内 要するに、竹入が共産党を煽って火を付けた張本人だった。あまりにひどかったから、支持団体の学会が、火を消そうと懸命に努力してやった。
 ところが竹入は、その努力を踏みにじり、台無しにしたんだ。

 原田 それも全部、自分が自民党の一部や財界にシッポを振るためだよ。

 佐藤 この恩知らずめ! 我々は未来永劫に、断じて許さぬ!





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